著者の文庫に山本勘助記の兵法書が三冊(写し)ある。その一冊は文化元年初秋に再版した大阪・御堂筋瓦町南入小刀屋六兵衛刷りの『兵法奥義書乾・坤』(巻)と『山本道鬼兵法記全』である。後著の「山本道鬼」は没後の勘助の法名である。天文十五年(一五四六)五月、兵法、馬術、合戦用具、甲冑の心得、必勝の心得などをこと細かに記録したのを没後に出版されたと『道鬼兵法記』に書かれているが、『兵法奥義書乾・坤』の二冊の再版の初版はいつの時代のものか書かれていない。
勘助が武田信玄の軍師に昇格したのは武田家が滅び、徳川が天下を掌握した江戸の太平の世になってからであろう。
勘助は城造りの名工だった?へ

天正十四年(一五四五)四月十八日、武田軍の猛攻に城を捨てて敗走した信州上伊那郡の高遠城の城主高遠頼継に代わって城を占拠したのは晴信(信玄)の重臣・秋山伯耆守信友であった。晴信は足利将軍が住む京都へ抜ける最短距離である高遠城を武田の兵站基地として重要視して山本勘助に強固な城造りの縄張り(設計)を命じた。
勘助は高遠に移り、山と谷の天然の要害を生かして築城した難攻不落の高遠城を構築した。その後、信州・川中島に進出した武田軍の拠城・海津城(長野市松代町・松代城の築城の縄張りも勘助が参加している。
山本勘助の実在を証明した『市川文書』

『市川文書』に登場する山本勘助は、信玄の使い番として信州の最前線で警備する武田方の市川藤若の武将が野沢の宿陣を出向いて、市河隊長に信玄直筆の書状を渡し、信越国境を超えて進軍している武田方の戦況を報告した。
弘治三年(一五五七)六月二十三日付の主君信玄の書状には「(前略)飯富兵部少輔(虎昌)に援軍として不知なし候の条、御心易かるべく候。なお山本管助(勘助)の口上あるべく候。恐々謹言」と結んでいる。
『甲陽軍鑑』では、信玄の軍師としてたびたび登場する勘助だが、『軍鑑』以外の資料には皆無にひとしかった勘助である。したがって勘助の功名および兵法奥義書の類いは武田氏滅亡後しばらく経って徳川幕府の検閲の下で出版された『甲喝軍艦』の中で創作された架空の人物または奥義書ではないかというのが歴史学者の一致した見方であった。
それに勘助が武田家に仕官してから今川、北条、長尾景虎(謙信)の本陣に乗り込んで画策するなどという暴挙は高齢の身体
障害者であるはずの勘助には到底、不可能であったろう。『風林火山』の原作者、井上靖は勘助を過大評価して信玄公の軍使として自由に創作したのである。『市川文書』の発見で近年になって実在が証明された。
この書状の発見で勘助は主君および武田の重臣に、かなり信用されていたこと。軍師とか重臣というより敵味方の使い番として重い役目を果たしていたものと思われる。
豊かになった甲州の農兵

永禄四年(一五六一)九月十日の決戦前日、海津城に集結した武田信玄ほか武田の諸将の中で妻女山城にこもる越後勢の上杉政虎(謙信)の大軍を妻女山攻撃隊と八幡原の信玄本陣のふた手に分けて攻撃を開始して越後勢を八幡原でハサミ討ちの計画を提案したのは勘助であった。
信玄も勘助の キツツキ作戦“に賛同して決戦前日の夕刻、八幡原へ信玄の指揮で出発した。一方、妻女山攻撃隊は夜半を待って海津城を出て、妻女山城へ向かった。
妻女山城の越後勢は、ふた手に分かれて行動を開始した武田方の作戦を察知して妻女山城に赫々と火をともしてから八幡原を目指して全軍でひそかに山を下った。翌十日未明、八幡原で信玄の本隊と越軍の大軍が激突、武田方の本陣は、越軍に包囲されて、信玄の身代わりとなって敵中に討ち入りした実弟の武田典廐信繁らおもな重臣は戦死した。山本勘助も キツツキ作戦“の失敗の責任を負い敵中で八十六ヵ所の傷を受けて壮烈な戦死をとげた。享年62歳であった。
勘助は城造りのプランナー
天文十四年(一五四五)四月十一日、武田晴信公を迎えて武田勢七千余は孤立した信州上伊那郡の高遠頼継の居城・高遠城に総攻撃をかけて難攻不落を自負していた城を落とし、高遠一族は全員自決した。
城内の戦場整理は、陣場奉行の原隼人佑の役割だが、なぜか山本勘助が高遠城の増築および補強の縄張り(設計)を担当している。
(つづく)
其の弐 主君晴信公の「孫子の兵法」を実践で証明した山本勘助 >>
著者紹介
坂本 徳一(さかもと とくいち)
歴史作家
元山梨日日新聞社論説委員、山梨ロマン街道選定委員、甲府市史編纂専門委員。現在山梨県宗教者懇話会顧問、日本文芸家協会会員。
主な著書『武田信玄写真集』『武田二十四将伝』(新人物往来社刊)、『関ヶ原合戦始末記』(教育社刊)、共著『武田信玄のすべて』、『謀将山本勘助と武田軍団』など。
甲府市山宮在住。