昭和22年から24年までに生まれた約800万人が団塊の世代と呼ばれ定年を迎えている。平日ゴルフや朝酒、昼寝はし方題、時間にまかせてじっくり新聞に眼を通すことも多いだろう。ではこの人たちが生まれた頃、その親は日々、どんなニュースを目にしていたのか
記事は関係者へのインタビューが中心。以下は事件概要、昭和22年9月6日、静岡刑務所で637名が暴動事件を起こした。騒乱に乗じて受刑者が所長を脅かして刑務所のトラックを奪い九名が逃走したというもの。
この事件を契機に特警隊(とっけいたい)が廃止され刑務官による警備に代わった。暴動はこの特警隊に原因があったようだ。太平洋戦争末期になると成人男性は兵役にとられ刑務所の職員が不足するようになった。そこで受刑者を刑務所管理の補助にあたらせた。これが特警隊だ。昭和18年特警隊の試験運用が始まり翌年、本格設置となった。戦時の緊張感の中、作業場の見張りなど補助業務に当たり、それなりの働きを見せた。「囚人自治」までも認められた。しかし戦争が終わると刑務所内部の暴力団と化し、乗っ取り事件を起こすまでになった。
静岡事件の1カ月前の8月、大阪拘置所では看守が庁舎の2階まで追い込まれ、所長命令で拳銃が実弾射撃された。それでも暴動が止まず大阪府警の武装警官隊、進駐軍憲兵隊が出動し、やっと沈静化させた。その大混乱に乗じて未決囚が脱獄している。
さて、事件後10日たった静岡刑務所当局に記者が一問一答をしている。
ここで記事は終わっている。当時の世相はどうだったか。
甲府市のカルピス甲府工場には9600貫(36トン)の砂糖が運び込まれ8万本のカルピスに生まれ変わろうとしている。1日千本、4月に県に納められ配給に回される予定。配給の対象は2歳から7歳までの幼児と70歳以上の高齢者で1人ビール瓶半分、1本35円の予定。当時本物のカルピスを作っているのは甲府工場だけと書いている。
これより1年前の昭和21年4月、終戦から8か月がたった頃の記事
民主主義化を急ぐ社会相は明暗2面相を呈しつつ、職場にあるいは文化歓楽街から先ず男女の活発な息吹が強く感じられるという書き出しで始まる。
厳しい食糧難の中、記者は市内の結婚相談所をルポしている。日に1件の相談が主として女性から持ち込まれる。年齢は25歳から29歳くらいが多い。求める男性象は職業に就いている人。職種は問わず安サラリーマンでもよく、とにかく生活が安定することを望んでいる。学歴は問わない。30、40歳の女性は住宅難の折から後妻や住み込みの家政婦でもかまわないという。男性はどうか。7人の子がありながら妻に先立たれた夫の場合だ。家政婦では食糧や衣料を持ち逃げされると考え、再婚を希望している。女性の中には2号さん(妾)でもいいので斡旋してほしいと相談するものさえある。結局住むところがあって食べるものがありさえすればいいという心境だろう。
食糧事情はどうか。終戦から1年後の昭和21年8月31日の記事には「とうもろこしのほがらあん」が載っている。当時米軍が配給した「とうもろこし粉」と思われる。
とうもろこしを粉末にし、水中で薬品処理をして未消化部分を除去したものらしい。米と差し引きで支給されているという。県粉食協会が調理法を発表。それによると
△すいとん=小麦粉と半々に混ぜ水で少し固めに練りあわせる。柔らかいと溶けてしまうから要注意。
△ほうとう=ほがらあんは3割くらいにする。小麦粉は連合軍のものでもふるって使えばよろしい。この場合もやはり固めにする。
△代用飯=小麦粉と半々に混ぜ、よく練ったものを適当の大きさに切って食す。ふりかけやきなこをかけて食べる。
このほかカレー飯、うすやき、も紹介している。
さて戦後3年たった昭和23年6月の記事によると、甲府警察署管内の盗難事件は1日平均30件、1日に受け付けた寸借詐欺は12件、小学校6年生が市内の菓子店から9千円を盗み映画を1日で4館見るなど、窃盗で捕まる少年が連日5、6人いた。皆、「食べるためにやった」と犯行の理由を語っている。
食糧難はまだ続いている。しかし団塊の世代は続々生まれ続けてくる。そんな日々だった。